「完成の始まり」井上義実師
御国が近づいている⑭
聖書箇所:ヨハネ黙示録4:1~11
4:1 その後、私は見た。すると見よ、開かれた門が天にあった。そして、ラッパのような音で私に語りかけるのが聞こえた、あの最初の声が言った。「ここに上れ。この後必ず起こることを、あなたに示そう。」
4:2 たちまち私は御霊に捕らえられた。すると見よ。天に御座があり、その御座に着いている方がおられた。
4:3 その方は碧玉や赤めのうのように見え、御座の周りには、エメラルドのように見える虹があった。
4:4 また、御座の周りには二十四の座があった。これらの座には、白い衣をまとい、頭に金の冠をかぶった二十四人の長老たちが座っていた。
4:5 御座からは稲妻がひらめき、声と雷鳴がとどろいていた。御座の前では、火のついた七つのともしびが燃えていた。神の七つの御霊である。
4:6 御座の前は、水晶に似た、ガラスの海のようであった。そして、御座のあたり、御座の周りに、前もうしろも目で満ちた四つの生き物がいた。
4:7 第一の生き物は獅子のようであり、第二の生き物は雄牛のようであり、第三の生き物は人間のような顔を持ち、第四の生き物は飛んでいる鷲のようであった。
4:8 この四つの生き物には、それぞれ六つの翼があり、その周りと内側は目で満ちていた。そして、昼も夜も休みなく言い続けていた。「聖なる、聖なる、聖なる、主なる神、全能者。昔おられ、今もおられ、やがて来られる方。」
4:9 また、これらの生き物が栄光と誉れと感謝を、御座に着いて世々限りなく生きておられる方にささげるとき、
4:10 二十四人の長老たちは、御座に着いておられる方の前にひれ伏して、世々限りなく生きておられる方を礼拝した。また、自分たちの冠を御座の前に投げ出して言った。
4:11 「主よ、私たちの神よ。あなたこそ栄光と誉れと力を受けるにふさわしい方。あなたが万物を創造されました。みこころのゆえに、それらは存在し、また創造されたのです。」
私たちの身近で起こるできごと、遠くで起こるできごと。私たちが目にし、耳にするできごとは世が終わる時のしるしを感じさせられるものが多い。世界はどのようになるのかと考えさせられる。「御国が近づいている」のテーマも2年前から語っているが、このテーマでは初めてヨハネの黙示録から開く。
黙示録は1章が序文、2・3章はアジアの7つの教会へのメッセージであり、現在に向かって語られている。4章からこれから起こる預言が記され、天上の礼拝から始まる。終末はここから始まっていく。
Ⅰ.開かれている門
ヨハネは天に開かれた門を見て、ラッパのような音で語る招きの言葉を聞いた。黙示録の光景はこれから起こることになるが、今、実際に開かれている門を聖書から見よう。
1)救いの門:「わたしは門です。だれでも、わたしを通って入るなら救われます。」(ヨハネ10:9)とはイエス様の言葉である。イエス様が私は良い牧者と言われた箇所で、「わたしは門です」と言われた。私たちはイエス様を通って救われる。緑の牧場、いこいの水際の祝福に導かれる。
2)伝道の門:「しかし、五旬節まではエペソに滞在します。実り多い働きをもたらす門が私のために広く開かれていますが、反対者も大勢いるからです。」(コリント第一16:8・9)とある。初代教会時代、有力だったのはエペソとコリント教会。エペソはアルテミスの大神殿、コリントは繁栄と不道徳の町だった。神様の働きは全てを超えて進められていった。
3)助けの門:「彼らが、第一、第二の衛所を通り、町に通じる鉄の門まで来ると、門がひとりでに開いた。」(使徒の働き12:10)ペテロがヘロデに捕えられた後に、神様によって助けられた記事になる。
私たちのために神様は救いの門、伝道の門、助けの門を開かれている。
Ⅱ.天上の礼拝の光景
天上には神様の御座があり、神様が着いておられた(2節から)。ヨハネであっても神様を直接に、詳しく目にしたようではない。神様の栄光と周りの虹が見えた。
神様の御座の周囲には白い衣をまとい、頭に金の冠をかぶった24人の長老が座っていた(4節から)。歴代の信仰者の代表、象徴としての24人である。天に引き上げられた信仰者による礼拝である。
4つの聖なる生き物がいた(6節後半から)。第一は獅子のよう、第二は雄牛のよう、第三は人間のよう、第四は飛んでいる鷲のようであった。エゼキエル1:5からのケルビムによく似ている。8節以降の6つの翼を持ち、「聖なる、聖なる、聖なる、主なる神、全能者。」とささげる賛美は、イザヤ6:1からのセラフィムの姿に通じている。旧約聖書の天的な存在であるケルビムとセラフィムが統合されて黙示録の礼拝に出てくる。神様に属している天的な存在が礼拝をささげている。
「それは、イエスの名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが膝をかがめ、すべての舌が「イエス・キリストは主です」と告白して、父なる神に栄光を帰するためです。」(ピリピ2:10・11)とあるが、全ての信仰者によってたたえられる礼拝が天においてなされる。全ての信仰者による天上の礼拝に、私たちもやがては与ることができる。
Ⅲ.私たちがささげている礼拝
ヨハネの黙示録4章から始まる天上の礼拝であるが、今を生きている私たちにとって時間は先であり、場所も届かないところにある。神様による終末が天上の礼拝から始まっていく。私たちが今この時に、共に集ってささげている礼拝は無関係ではない。地上での礼拝が積み重ねられていって、終末の時を迎え、天上の礼拝につながっていく。
私たちは、クリスマスに地上に来られたイエス様と、やがて再び来られるイエス様の間の時代に生きている。未完成の世界であるが、やがて完成される世界の間に生きている。痛みや苦しみや、闇が影を落とす世界に生きているが、喜びや輝きに満ちた世界を待ち望んでいる。
私たちが、イエス様はやがて来られ、全てを新しくしてくださるという信仰に生きることによって神様に導かれていく。今、ささげている礼拝が神様に喜ばれ、神様に受け入れていただける礼拝として真心からの礼拝をささげていこう。私たちの礼拝が天上につながる礼拝、永遠につながる礼拝とされていくように祈りつつ、共に集い、共に主を仰ごいでいこう。
主の祈りには「御国を来たらせたまえ 御心の天になるごとく 地にもなさせたまえ」とある。礼拝においても天になるごとく、地にもなさせたまえと祈る。