「イエス様による救け」 井上義実師

聖書箇所:マタイ14:22~23

14:22 それからすぐに、イエスは弟子たちを舟に乗り込ませて、自分より先に向こう岸に向かわせ、その間に群衆を解散させられた。
14:23 群衆を解散させてから、イエスは祈るために一人で山に登られた。夕方になっても一人でそこにおられた。

先ほど読んでいただいた嵐のガリラヤ湖の直前にはイエス様の大きな奇跡が記されている。イエス様は力ある言葉を語られて人々の魂と心に届き、多くの奇跡を行われて主の愛の確かさを見せられた。

Ⅰ.群衆がほめたたえた神様の業
先の13節からは、5つのパンと2匹の魚から男性だけで5千人、女性や子どもたちを含めて1万人を超えたであろう群衆の空腹を満たされた。わずかなパンも魚も、イエス様が祝福されて、分ければ分けられるほどに増えていった。イエス様の多くの奇跡の中でも、大勢の人たちが同時に経験した奇跡だった。人々はこの大きな奇跡に興奮して、イエス様を取り囲み、同じ内容のヨハネ6章ではイエス様を王にしようとしたとある。もしイエス様が人気取り、人集めを考えておられたなら絶好の宣伝の機会であった。イエス様がこの奇跡を行われたのは、空腹の人々が疲れ切って倒れないようにあわれみによるものである。
人々の興奮の中でイエス様は群衆を解散させ、弟子たちだけで湖の向こう岸に送り出された。大きな興奮、高ぶった感情はすぐに醒めてしまう。私たちも感情だけで神様を捉えていると、気持ちの浮き沈みで信仰がいつも動かされてしまう。動かされないものに立つことが大切である。
イエス様は群衆を解散させられ、弟子たちも彼らだけにされた。ご自分は一人きりで心を静めて祈られていた。人々が、弟子たちが動かされない揺るぎない信仰を持つことを願われていた。

Ⅱ.弟子たちが驚いた神様の業
弟子たちの信仰のためにイエス様はどのように導かれたのか。弟子たちが嵐のガリラヤ湖で漕ぎ悩むことであった。イエス様の弟子たちはガリラヤ湖で漁師をしていたペテロ、アンデレ、ヤコブ、ヨハネたちがいた。弟子たちにとっては、ガリラヤ湖の上が自分たちの最も良く知っている場所だった。ガリラヤ湖のこと、船を漕ぎ進めることのプロたちである。
その彼らが一晩かけても前に進めない波風だった。今までの経験、知識を総動員しても、体力、気力をふり絞ってもどうしようもない。疲れ、不安、焦り、憤りを覚えて心も不安定になる。私たちも人生の只中で、突然の嵐に襲われることがある。何とか抜け出そうと努力しても前に進めないような危機に出会うことがある。
苦しんでいる弟子たちは、湖上を白いものが近づいてくるのを見た。弟子たちは幽霊だと怖じ惑った。しかし、響いてきたのはイエス様の声だった「しっかりしなさい。わたしだ。おそれることはない」。弟子たちは嵐の湖で死を覚悟していたかも知れない。イエス様が来てくださったことはどれ程大きな安心、喜びだっただろうか。
弟子たちは自分たちの経験や知識では届かないものを知った。自分たちをはるかに超えている神様を信じていくこと、拠り頼んでいくことを体験した。

Ⅲ.私たちも与る神様の業
ペテロは水の上を歩いてあなたのところに行かせてくださいとイエス様にお願いした。湖の上を歩きだしたペテロだが、すぐに波風を見て怖くなりおぼれかけた。イエス様は直ぐさま手を伸ばしてペテロを助けられた。ペテロは信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのかとイエス様に正されてしまった。ペテロが水の上を歩かせてほしいと願ったのは、ペテロの信仰と評価できるが、イエス様から目を離してしまったことは大きな失敗だった。私たちはイエス様を見つめ続けることは私たちの信仰の歩みに欠けてはならない。イエス様以外のものに心ひかれてはいないだろうか。
イエス様が舟に乗り込まれると嵐は止んだ。イエス様が共におられること、イエス様が主(あるじ)になってくださるならば嵐は静まる。イエス様が乗り込まれて、ほどなくして舟は目的地に着いた。
ガリラヤ湖畔で1万人以上の給食という奇跡を体験し、嵐のガリラヤ湖でもっと個人的な奇跡を体験した弟子たちであった。弟子たちはイエス様を神の子として崇めた。彼らの心が開かれ、信仰へと導かれていくことも神様の業である。

私たちの多くは弟子たちのように大きな奇跡を体験しないだろう。それでは、イエス様を神の子と信じて告白できないのか。弟子たちのような体験はなかったとしても、私たちは福音書からイエス様の奇跡も言葉も行いも知ることができ、聖書全巻からイエス様を見出していくことができる。奇跡は体験しなくとも、弟子たちの知らない救い主イエス様の姿を聖書のできごと、証言から知ることができる。私たちの心にも信仰のともし火が灯され、大きくされるように、共に主の恵みに歩んで行こう。

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